主婦美術研究

母親になったアーティストが、志し半ばで果てないために…

インプットはアウトプットできた時、はじめてインした

最近は、隙間もないのですが、いわゆる隙間時間に、いろいろインプットしているつもりです。

でも、実はそのインプットしたであろうこと、それをアウトプットできるんか!?ってなった時、自分が分かってると思ってる1割くらいしか、人に伝えられない=1割しかインプットされていないわけってことが、インプットされました。だって今ここにそれをアウトプットしたから〜。わかる?意味わかる?

 

そんなこんなで最近、日々の簡単はアウトプットの仕方をちょっとずつ試行錯誤していますが、なかなか煩悩まみれの私は一歩踏み出すのができないようで。でもやろうと思っている以上、時間がかかってもやるんだろうね。

 

https://youtu.be/TWQmKa8uDsk (←短いのでお手数ですが、見てやってください)

↑↑↑私よりも10倍早く行動した、せい10ろうさん。

学校の休校は、もうすぐで3ヶ月になる。

ただでさえ、学校の学習が得意でない彼は、「プリント」という怪物と毎日戦っている。

プリントをやれ、と言われ、学びたい!という気持ちがない人が、果たして何を学べると言うのか。

そしてそれ以前に、朝の会も授業開始も終わりの会も、なんのスイッチのきっかけもなく、子どもが学べるのであれば、そもそも学校の校舎はいらなかったと言うことになるが。

この2ヶ月半、私は校舎は大事だったんだと思う。「学」と「校」、2つの存在があって初めて教えが育つ。なんでも無さそうな、周りの人の動きや気持ちや匂いや音。そう言う空間が、学びのスイッチを入れてくれたり、また消したりもしているのだろう。それを親が毎日入れるのって本当に1日がかり。それでも無理な時もあるくらい。

でも彼は、この動画を撮って、自分でYTで検索して、見て、「あ、『ダイザイ』じゃないんだ!」って学べたんではないか!

 

刺激がないなら自分で作る!

 

クラブが盛り上がってないなら、自分が盛り上がれ!

 

話し相手がいないなら、自分と自分で話そうぜー!

 

限界はあるけどさー!

 

今思ってることは今しか思ってないかもしれないので、書いておこう。

生き残りたいんじゃなくて、、、生きたいんだ 〜アクリル板越しの接吻 〜

この不思議な世界でずーっと考え続けている。しかし、そんな考えている最中に、家の中の潜む4つの外界に、100回くらい中断させられるもんだから、何を?どこまで?考えてたのか、そもそもさっきまで考えていた事さえ何だったのか、忘れていく、というのを繰り返す毎日。

 

ジャックアタリという可愛いおじちゃんがテレビに出ていて、すごくズキュンと惚れた。なぜだろう。とにかくポジティブなことを私も考えたり、発したりしたい、しようと、強く思わされた。好きだ、アタリちゃん思考♡

 

まあそうさ、子育てだって、怒りスイッチONになっちゃうと、余計な事まで、何もかもネガティブなことばかり口走って、そうなるとどんどん家の中の空気がそれに引っ張られる。言い方とかもそう。常には難しいけど青さんのスキップみたいに軽やかに発言しつづけられたら、なんて素敵で、その周りにもその素敵が行き渡るんだろうな、と思う。

大好きな安住紳一郎の日曜天国でも流れていたが、コロナ対策のためアクリル板に囲まれて放送している。そんでお便りをくれた宝くじ売り場のリスナーが、いつもアクリル板越しで仕事しているけど、アクリル板があると、感情を7割増しとかにしないと、ちょうど良くないとかそういう内容で。そうか、じゃあ悪態を吐きそうになったときにマスク越しに言えば、30%の悪意しか伝わらなくて済むかもしれない。いや、マスクだとアクリル板より透ってる感じだから、60%くらいの悪意は伝わっちゃうかもな。私のような感情の起伏が激しい人には、つねにアクリル板が必要だろうな。

 

さて、なんで自然の中に身を置きたい。自然が多いところで暮らしたい。と、多くの人は思うのだろうか。多くの人が思ってるのかどうかは定かではないが、私は思ったりする。なんでだろう。

考えてて、色々答えが細々と思いついた。

自然って、人間が認識するには複雑すぎるから、それに取り囲まれた時点で、なんでも認識したいと思う人の自動的な機能がoffになるんじゃないか。てことは、大自然であればあるほど「無」に近い状態になるみたいな。でも、人間がちょろっと作ったような偽自然な物は認識できちゃったりしそうになるので、そうはなれない。

佐渡島に移住した友達が言ってたけど、田舎に住むと、都会の「人」で出来上がってる歯車感がないから、すごく心が楽だそうだ。人のせいより、自然のせいで、思い通りにならないことが多いから。そうなると、仕方がないって、なる。死ぬのも当たり前のこと。だから「田舎の人」と「都会の人」って振り分けは、その根本の考え方で決まるのかもね。となると、うちのタピちゃん(夫)は田舎人である。私は都会人である。もうちょっとちゃんと書くと、感受性が豊か過ぎて生きにくい都会人なワタシっていう前書きがある。それと、鈍感な自分大好き田舎人タピって前書きもある。

 

ノンアルコールワインをベビーカーに積み、昼間、大阪城公演を2時間ほど歩いて来た。2回ずつ、1時間前にすれ違った濃厚ラヴラヴなカップルたちとすれ違っていく。おばちゃんの二人組(いや、私ももうおばちゃんなんですが、先輩おばちゃんって感じのおばちゃん)が私がワインを飲みながらベビーカーを押して歩いているので、通り過ぎたのに、振り返ってまでこちらを凝視していた。ははは、彼女たちの心の声を聞きたい。

ロッコの駅でたまたま出会い、イギリスの美術館で偶然に再会したことがあるAちゃんが、私のブログを愛読してくれていることを知り、とても嬉しく思った。私は中学生の頃、ブログを始めて、いつも自分のために書いてきた。それをただ公開しているだけ。なのでたまにものすごい公開していいの?ってこと書いてるかもだけど、カーテンを着けずに丸見えにすることで、自分自身と家族を守ってる、とかっこつけて言うことにする。そう、オランダの家方式である。とにかくそのAさんが、私への愛と以前の仕事がワイン関係ということでご友人が美味しいノンアルワイン輸入してくれているということで、なんと私にプレゼントに送ってくれるという。読者プレゼント係の逆バージョンや。たまらん。

 

ピクサーの映画「ウォーリー」を再び観てみた。

Zoom飲み会は、どう進化していくのか妄想してたら、やっぱり集いたいという風潮になって、ドライブシアターみたいに車で集まって、フロントガラス越しに、5、6台向かい合って、飲むとか。あ、飲酒運転になるか。てことは、自動運転か!とか考えてたら、ウォーリーの時に出てきた、一人ひとり乗っていた乗り物を思い出した。そうだね、あれが未来だ。そしてその先の未来は?と見せてくれるのが、ウォーリーという映画だ。映画って大勢の人が一生懸命力と知恵を絞って作られているから、ものすごい妄想力の塊で、感染病「コンテイジョン」という映画見たら、映像の美しいドキュメンタリーみている感覚に陥り、ものすごいタイムリーなリアルでとても精神的に参ってもうた。

そうそう、ウォーリーの話。人間の止まらぬ欲望ってのが「生きたい」という言葉にこもってる気がする。「生き残る」をさんざんしてくると、残らんくてもいいから、生きる活動をしたいということになるのね。まあそのためには残らないとできないんだけどね。ロボットも個性があって、予想不可能な動きをするものほど人間らしい。ロボットとしては優秀では無いが、魅力があるのだろう。

私はこの前の晩、心がいっぱいいっぱいになって、タピに

「私の大変さは、誰にもわからない。私は、大変なんだ。かわいい0歳、3歳の悪ガキ、4年の学習障害の泣き虫をノンストップでずーーーーーーーーっとお世話しつづけている。一人でも二人でもなく、大変な組み合わせの3人なの!それをただ淡々に作業として、ずーーーっとしつづけていればいいのかもしれないけど、大変なの!だって私は欲で溢れているから〜!うぇ〜〜〜〜ん」

と泣いた。タピは

「そう!そうなんだよ!さえちゃんはよくわかってるな〜。欲で溢れてるからね、しょうがいないよね」

って。。。

あぁ、人間だもの。

母としても妻としても娘としても社会の一人としても、自分自身にとっても優秀ではないけど、何かにとっては魅力的でありますように。

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生き生きと疲れ果てている

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産後3ヶ月経った。

助成金をもらっている活動や、小学校のPTAの広報誌を作る活動等を産後2ヶ月になる前くらいから開始した。

とはいえ、1日に活動できる時間はわずかで、だいぶ足りない。

でも今晩、寝れなくなって気がついた。

作業の時間が足りないだけではない。

作業をするにあたって、関わる人間同士で起こる、さまざまな出来事に対して、いちいち考え込むワタシは、その「いちいち」の時間が足りていないということを。そして、それが足りていないと、こうやって夜寝れなくなるのだ。身体は完全に眠って休みたいくらい、ボロって感じなのに、脳が寝かしてくれない。目の下に、小さくておデブな王さまがぶら下がってる重さ。

 

直接関わっている人は、数えるくらいだろうけど、その人と自分との考え方の違い、目指している所の違い、そしてそれを理解しようとせず、互いの欲望へひた走ってしまっているとこって、地震のように、ハッとさせられる。インスピレーションってこういう感覚かもしれない。

 

枯れた花も飾っておくのが好きだ。水はきれいにして。生き生きと枯れている。

枯れたら捨てる、そういう価値観の人も、理解しようと、したい。でもそういう価値観の人に、自分の価値観も熱弁したい。でも、どうせ、通じないだろう、と、最初からその労力を惜しんだり、挫折を怖がっていたら、何も学ばないし、変わらない。

一度目は、思いっきり転べるけど、一番難しいのは、二度目に転ぶ時だ。転ばないようにしてしまうか、転び方を考えてしまう。

それをも超えたところで、思いっきり転びたい。

絶対転ばないぞっていう意気で。

こんにゃくの格子状

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家事が苦手だ。

毎日のルーティンがたぶん苦手だ。

同じ日々を繰り返すのが苦手なのだろうか。

毎日違う自分なのか。毎日同じ駄目な自分なのか。

料理も掃除もササっとするものが苦手だ。

時間をかけてじっくりたまにするような家事は好きかもしれない。

 

料理は最近「土井善晴」さんのアプリを月々お金を払って入手し、参考にしている。

今日は蒟蒻のステーキ的なものを作ったのだが、土井さんのは格子状が網で押しつけたのではないかと思うくらい格子状で、こんなんむりぷーーーと思ってしまった。いや、しようと思ったらできるのだけど、そこに時間をかける余裕がない。だからクックパッドくらいのプロじゃない料理のレシピって親近感というか、同じっぽいのが作れるから達成感が高く、人気なのかしら、なんて思った。

 

無駄に大根おろし太陽の塔にする努力に使う時間は惜しまない私は生きにくい主婦というべきなのか。

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この前早起き出来た時に、思いついたことを忘れないように紙に書こうかな〜と思って書いたものが思わぬ発見をくれた。やはり早朝の一人の時間を家事に使うのは勿体なすぎる。溜まった食器や洗濯物にしらんぷり〜んして、朝の1時間、時に2時間自由時間?制作時間?を堪能する。

私は主婦を始めた、約9年前からずっと自分の美術家としての活動のしにくさ、物理的と心的?(子供を産んだ後と産む前とで、前に気になっていたことなどが気にできないくらいの生活になったせいか、気になっていたことに対してなんだか腹が立つようになってしまったり)に前のような制作活動を素直にできなくなっていた。そして、その事にずーーーーっと焦って生きていた。

それが、3年前に長男が小学校入学目前に、幼稚園時代に彼に向けて日々書いていた「はしぶくろ」:朝忙しい中、一番初めに思い出した前の日の出来事の落書き的な絵たちを250枚くらい展示した。それをした時に、少しその焦りが溢れないくらいには抑えられたと思う。

3人目が生まれた今でも、焦りは無くなったとは言えず、身動きができない状態になると、私は燃えるようでw、時間にもう少し余裕があった時の方がもっとできたんじゃないかと思うけど、こういう状態にならないと出来ない性格なのか。じゃあずっと忙しい人なんだろうか。

でもこの前の朝気がついたメソッド。それを意識していたら、制作じゃないような事も楽しんで出来る!と大発見。それは、ビヨーンなのだ。そしてそのビヨーーーーーーンの横棒が長ければ長いほど、良いのだ。う〜んうまく説明できるかわからないけど、下の図のようなことだ。縦線が日常と非日常。横線がクリエイティブとノンクリエイティブ。このノンクリエイティブからクリエイティブへの変換。例えば、日々の弁当作りがビヨーンにより、はしぶくろ制作に変化することで、日々の家事を制作にできるのである。既にクリエイティブにあるようなことでも、自分の中でビヨーンが起きてない場合はそれは、クリエイティブ度は低い、というのか、インパクトが低い。人によって、クリエイティブとは、と日常の中身は違うと思う。キャラ弁にしてクリエイティブという人もいるだろうし。このビヨーンを自分にも周りの色んな人にも起きれば、人生を豊かに感じられる気がした、そんな朝。そして泣き声。

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1体1

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帰ってきました、心の故郷オオサカ〜!

 

タピちゃんの実家は大人の数が4名いてる。内1名は94歳の要介護であり、内1名は33歳のニートである。

圧倒的に大人の数が子供より増えると子育ては物理的にも精神的にも楽である。ただ、子どもと心と心を突き合わせて向き合う、というようなことが、大人の数が多いと、しにくい、というか、する機会、タイミングがほとんどなくなってしまう気がする。あまり良くない感じの表現をするなら、大人の数=テレビのチャンネル数、みたいな。もしも、テレビが1番組しか映らなかったら。もっと一生懸命番組を見るかな?見ない時は見ない、って気持ちにもなるだろう、はっきりと。ただ6番組あったら、1つCMになったら他に変える。一人の大人に怒られ始めたり、宿題やらないの?とか言われると、他の大人の所へ逃げる。言ってた大人も他の用事や他の子供の世話や、よっぽどのことでない限り、何度も逃げられるのをしつこく追っていって、話を終わらせるということをしなくなる。それを繰り返していく日々。大人へとなっていく子。いつの間にか、親と子の心の間には、フェードアウトで慣れきった、簡単には修復しきれない関係が出来るかもしれない。

そう思うのは、長男がまだ幼稚園に通う前、あれは7年前くらい。大阪で一人友人が出来て、その人だけに支えられて生きていたような感じの時。原因不明で毎日大泣きし続ける長男に、仕事でほとんど家にいないタピ。親戚一人いない大阪の地。支援センターで予約制の子供と遊ぼう的なイベントへ、その友達と行った。参加者は10組いないくらいで、途中、輪になって床に座り、今の子育ての悩みをセンターの人へ話す時間があった。みな、子供がなかなか寝てくれない、食べてくれない、おもちゃを片付けてくれない、とかそんなような悩みを口々に言っていった。私は、なんだその悩みは、とイライラしていた。私の番になり、「ニュースで子どもを殺してしまう人の気持ちがわかるようになった」と言った。そして涙が出ていた。そうすると、話を聞いていたセンターのおばちゃんが「私は子育ての時、祖父母も一緒に住んでいたから、とても楽だった。けれど今、子供が成人する頃になって、何か一言では言えない子供とのミゾが出来てしまって、どうにもならない。そのミゾは、とても長い時間かけなければ埋まらないし、もう一生埋まらないかもしれない。だから、今あなたは本当に辛くてどうしようもないと思うけど、それは子どもと1対1で、向き合っているからこその辛さであって、こんなこと言うのもあれだけど、私はとてもあなたが羨ましい、私もその頃に戻れたらなって思う」と言ってくれた。その言葉は、どんな励ましや、共感よりも、心に響いた。そして横を見ると、一緒に来ていた友人も涙を流してくれていた。人前や旦那の前でも泣くような人ではないのに。

私と長男は随分長く1番組を観続けた。思い出したくもないくらい酷いことを言ったり、手が出た時もあった。それは子どもがよっぽど悪いことや危ないことをしたのではなく、私の心がギスギスだったせいだ。それでも、その1体1の時間は既にかけがないのない時だったな、と思える。そう思えるのは、やはり1対1だから、いくら酷い日であっても、最後の最後にはそれを修復しようという行為がお互いにあって、しっかり終わっていた、というのが大切だったんだろうなぁ。番組を変えるリモコンすらなかったから、良かったんだ。って本当のニュースにならなかったから言えるのである。やはり、違う番組でないにしても、私も子も本とか外とかテレビ以外の少しでも離れる場は絶対必要であった。それは一時保育だったり、帰省の時の祖父母のところ。いないも同然だったタピが見てくれる日。それが無くて1対1は、とっても危険だ。

この冬休みは、子どもらはニートチャンネルが大好きで、いつもタピの在所に行く前と後では、子供が別人に見える。(自分と向き合うことがいつもの1割くらいしかないから)しかし子どもらの悩みは、ニートチャンネルは昼を過ぎないと始まらないことだ。

 

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インプットとアウトプットの間には「ぼー」があると思う。

その「ぼー」ができる場所ってどこでしょう。私はお風呂場で、とくにシャワーを浴びている時。

昨日は、11月に赤ちゃんを産んで以来初めて、子供ら全員と離れて小一時間ほど、タピとカフェに行けた。しかも掛川の。なので、田んぼばかりの景色を車から眺めながら、カフェに着く前からぼーっと出来た。そのカフェはとても素敵だけど飾りすぎておらず、ぼーっとしながらインプットもアウトプットもできるというような場所。こんな場所がいつか住むかもしれないところにあると、住んでからの妄想が止まらない。40代くらいの素敵な店員のお姉さんと、いろいろ話す日がくるのかなーとか。昨日は、掛川のAKI KASARAという銀彩のアクセサリーも売っていて、思わず買ってしまう。子を産んで以来、買い物はもっぱらネットばかりだったから、実際に目で見て、手にとって、身につけてみて、買うか迷って、タピにどれがいいかな〜と相談し、という行為を、とてもアナログに感じ、愛おしく思い、それで気持ちよかった。

タピに今年の抱負を尋ねながら、自分の今年の抱負を考えてみた。なんだか3人目を産んでやっと、子育て中の自分の活動の塩梅がわかってきた気がする。だから、1年間で何が目標とかどうなりたい!とか思えない。思わない、のかな。思っちゃうと焦るからか。結果を出すとか、とてもハードルが高い。活動するのでさえ、出来るか出来ないか、という様なのに。どうなっていきたいのかが現時点で少しあるから、それに向かって日々こつこつと積み重ねていくしかないのだねって。それで50代くらいで、その目指しているところにのっかれればいいなーって。そんなような事をタピに行ったら「でも去年はだいぶ色々と結果を出せてるんじゃない」と、美味しいピスタチオのケーキを食べながら言ってくれた。そうかなー?と思い返してみると、活動はできてない、とは言えないくらいは、活動はできたかも。と少し嬉しい気持ちになった。

 

家事は、インプットでもアウトプットでもぼーでもない。1日24時間あって、8時間寝て、2時間食べて、1時間お風呂だのトイレだの着替えだのして、残りの13時間くらい、少なくともせいぜい10時間くらいは家事をしているのではないか。(今はお正月でタピの在所で楽をさせてもらっているが)となると家事は、なんなんだろう。生きていく上で必要不可欠な活動。しなかったら、生活できないのだ。タスカジで作り置きを一度頼んだことあるけど、3日くらいは、メニューを考えて買い物に行って、作るって行為を免除された感があった。お金があれば家事は外注できる。すればいいってのがタピの考え。

 

じゃあやっぱり、私は自分のやりたい活動をして、それでお金を得て、そして家事を買う?のが理想的なのかもしれない。でも今は、この夜中にしか確保されない、心も体も脳もじぶんだけにできる自由時間の貴重さ具合がたまらない。条件がある中で何かを作り出すことが、何もないとこで生み出す行為より、クリエイティブ感があるように思う。それに似ている。

 

冬なのに水鉄砲で遊んでる。私の肩も頭もコリコリだがや、、、今晩は、花火でもしよまいか。

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ということで、11月初旬に我が家に女の子がやってきました〜

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頭で思い浮かんだアイデアを綺麗にまとめてメモってくれる発明を誰かしてくれ。多動症の様な頭の中で思い浮かぶ素晴らしいアイデアたちは10分ともたないことが多々ある。それを運良くメモれたとしても、そのメモってる時間にできたであろう、溜まった家事は更に溜まって、富士山のようによっ日本一〜!ってなってしまう。今も山をそびえ立たせているワタシ。

3人子供がいて、更に一人病気になると、ずーっと移っていって1ヶ月は無いものと考えて良い。まあなくは無い。だってこの期間に彼らの体は大人になるために免疫力を高めていってるのだから。そうか、大人になるってのは、肉体的に強くなるってことか。そうか、だから精神的?内面的にも強くなるってのが大人になることなのか!?それには、熱とか中耳炎とか咳とかみたいに、失敗して恥かいたり、怒られたり、後悔したり、自己嫌悪したり、色々な症状が必要なのね。

 

子育てなんちゃらとか、本とかいろいろあって、これあうなーって内容や著者にたまに出会すけど、実は、子育てベースの何かというより、作家ベースの子育て話とか求めている人がいるのでは?自分はその一人。まずなんか価値観というか、そこの共通項が通じないと、十人十色の子育てについて意見を参考にしたりするのは‬難解だ。その答えがあっている間違っているとかが問題ではなく、共感したり、そういう考え方があっていいよねっていう、少し常識外れっぽくなってしまうアーティストたちの背中を押す的な。自信満々のアーティストなら迷いはないのかもだけど、志半ばくらいで母親になる、年齢的に。すると、周りの「普通」の母親たちの流れに飲み込まれる。飲み込まれようって思えるくらいの客観性が持てればいいのだが、人の命、人生(まあ人生は自分次第ではあるけど、近い人間の影響は大きでしょうね、人間って面白いコピー機みたいだから)を預かってる未体験の子育てにそんな余裕はない。